こうして私はマラソンランナーになった
■ 宇佐美の一言 
 私にとってのマラソンランナーへの第一歩は、1964年に始まったと思っています。この年の正月「箱根駅伝競走」に初出場しました。驚いたことに、日大チームの4区(平塚―小田原間)を3位で走ったのです。
 同じ年の3月、「中日マラソン」を初マラソン完走(2時間28分17秒)で11位。5月の日本インターカレッジで「20キロ競走」を大会新で初優勝。6月の新潟国体で「35キロ競走」に県代表で25位といった具合です。
 この新潟国体終了直後に、新潟大地震が発生したことと、10月に東京オリンピックに出場したエチオピア・アベベ選手のマラソン2連勝の偉業を、甲州街道でしっかり見、脳裏に刻み付けたことが、強い印象に残っています。当時はまだオリンピックは遠い存在でしたが、アベベ選手が、その後の、私のオリンピック出場を、導いてくれたような気がしています。

1943年



5月31日新潟県吉田町生まれ。第二次大戦の真っ最中です。
9人兄弟の6番目、三男坊です。
実家は「鍋祐」という魚屋をやっていました。
父との写真

1968年のメキシコ五輪出発前に、
憧れの赤いブレザーを着て、
故郷の新潟県弥彦神社前にあった
実家のホテル玄関で、
父・祐太郎と記念撮影

1962年 新潟県立巻高校卒業。夢を抱いて上京しました。
1966年

日本大学経済学部経済学科卒業。
同大学文理学部体育学科学士入学。
体育学科での卒論のテーマは、「ランニングフォーム」
箱根駅伝の後輩を指導しながら、その区間におけるフォームの変化をみたんです。かなり実践的な研究でした。
1968年







同大学体育学科卒業。
同大学院文学研究科教育体育学コース修士課程進学。
修士課程では、高所トレーニングに挑戦しました。自分を実験材料にしてやってみたんです。まだ高所トレーニングの効果がさほど認められていない時期での、実験でした。



石碑の前での写真
 1997年、新潟県長岡市に近い川口町
田麦山岩栗ランドに、
森山正夫さんの手によって
「宇佐美記念碑」が建立された。
宇佐美彰朗直筆の「ひとより一汗多く」の
言葉を刻んだ石碑は子供たちの健康と、
すばらしい競技者の輩出を祈って建立された。
ここでは
クロスカントリー大会も行われている。
1969年 岸記念賞受賞。
1970年




日本大学大学院文学研究科教育学専攻体育学コース修士課程修了。文学修士。
日本スポーツ賞、朝日スポーツ賞、ホワイトベア・スポーツ賞受賞。
1972
73年
ドイツ(当時西ドイツ)ケルン・スポーツ大学に留学。
1973年

日本大学大学院体育学コース博士課程満期退学。
その後、1988年にもドイツに留学していますが、スポーツ教育を通じた国際交流は、貴重な体験となって今も生きています。ドイツ語の本『高齢者スポーツ(仮題)を翻訳し出版しようとしているのも、その国際交流の成果でもあります。
1992年 日本学生陸上競技連合功労賞受賞。
「3回連続オリンピック出場への道」に続く>>>

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